UPDATE
2020.02.17
「丁寧な暮らしでなくても」丁寧な暮らしを広げてきた雑誌「暮らしの手帖」が、丁寧な暮らしではなくてもというタイトルを上げました。
巷に増えるきれいな美しい建築写真やおしゃれなお店の数々...
日々、目に入ってくる毎日が「ハレの日」のような写真...いいなと溜め息が出るものも多くありますが、生活感のないものも多く目につきます。
人が生活する上で、無理をした丁寧さやポジティブさは素の自分を閉ざしてしまいそうです。
良いことや悪いことも含めて「ケの日」の日常を大切にすることが「ハレの日」のありがたみを深く実感することにつながると思います。
「こうしなければいけない」とか「こうでなければいけない」とか観念的なものにもとらわれてしまうと、とても息苦しくなります。
多少はくだけていたり生活感が見えてあたたかいほうが、むしろ居心地がいいものです。
丁寧さとは自分自身に問いかけて、自分を大事にできているかのような気がします。
私もどちからというと赤ちょうちんや大衆的な居酒屋や定食屋によく行きますが、肩ひじ張らずに行けるので、東京での暮らしも別にかっこいいものではありませんが、とても豊かに楽しめます。
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向田邦子の「夜中の薔薇」というエッセイ集の中で「手袋をさがす」という一説にこんな四谷の裏通りでの描写があります。
「夕餉の匂いにまじって赤ちゃんのなき声、ラジオの音、そしてお風呂を落としたのでしょうか、妙に人恋しい湯垢の匂いがどぶから立ちのぼってきました。こういう暮らしのどこが、なにが不満なのだ。十人並みの容貌と才能なら、それにふさわしく、ほどほどのところにつとめ、相手をえらび、上を見る代りに下と前を見て歩き出せば、私にもきっとほどほどの幸せはくるに違いないと思いました。そうすることが、長女である私の結婚を待っている両親にも親孝行というものです。」
向田邦子「夜中の薔薇」より
東京で暮らす一人の女性の人生を、生活という日々の営みが情緒感あふれ表現されています。
人は何かを求めて生きているのですが、日常の精神的な営みによる豊かさの中で、成長をしていくのが、人間というものだと思います。
あたりまえですけれども...
私の感じる情緒感も帰り道の民家からのカレーの匂いとか子どもの笑い声とか、そんなありふれているようで優しくて...とても尊いものに感じる日常です。
お金もそんなに掛かりません 笑